親鷲・日蓮の配流後 (1274〜) |
::: |
仏教が盛んになるにしたがい、仏器の需要が増し各地に塗師が招かれる。 |
(元和年間) |
::: |
秋田県能代の春慶塗(しゅんけいぬり)が伝えられる。
|
1638(寛永15)年 |
::: |
現在の古町7番町付近に椀店(わんだな)と呼ばれる塗り物の専売地域が定められ、塗物を専売とし保護政策がとられる。
|
1764〜1771年 (明和年間) |
::: |
三根山(みねやま)藩(巻町峰岡)の藩士渡辺源造が新潟へ来て蒔絵の技法を伝える。会津若松の畑清兵衛が堅(かた)塗(ぬり)を伝える。 |
1804〜1817年 (文化年問) |
::: |
弥彦の渡辺縫之守により磯草塗(いそくさぬり)が創案される。 金磨塗(きんまぬり)、銀磨塗(ぎんまぬり)が作られる。
|
1819(文政2)年 |
::: |
新潟町が漆器の特産地となる。 |
1852(嘉永5)年 |
::: |
塗物店14軒・塗物師73人・職工90人となる。
|
1864(元治元)年 |
::: |
椀店15軒・塗物師90人・木地製作者(指物屋(さしものや))25軒・職工300人 |
1873(明治6)年 |
::: |
塗物店25軒・塗物師92人・薪絵師10人・桧物師(ひものし)95人・指物師(さしものし)117人・仏壇師6人となる。 |
1886(明治19)年 |
::: |
組合が結成される。 |
1887(明治20)年頃 |
::: |
竹塗の祖、橋本市蔵の高弟長谷川善左衛門が来港、新潟の塗師吉田久平、藤因太三郎らがこの技法を受け継ぐ。 |
明治30年代 |
::: |
漆器生産府県連合共進会などの名で、全国的な競技会が盛んになる。 |
1899(明治32)年 |
::: |
組合が新潟市漆器同業組合として認可される。 |
1912〜1926年 (大正期) |
::: |
新潟漆器の名声は伝統的な竹塗、磯草塗、金磨塗にあり、日用品は石川、富山、和歌山産に県外販路を浸触されつつあつた。 |
昭和初期 |
::: |
県外販路は北海道を中心に樺太、東京、大阪、名古屋、横浜、長野、山梨、富山、石川、福井、京都、島根、四国、九州にまで及んだ。 |
1931(昭和6)年 |
::: |
満州事変以後、原料の漆液(うるしえき)が入手困難となる。 |
1935(昭和10)年 |
::: |
組合員112名にのぼり、漆器産業として隆盛を誇った。 |
1941(昭和16)年 |
::: |
太平洋戦争開戦により、漆工の徴用や漆液のキップの配給制をうける。 ・徴用工の弁当箱や勲章の箱等を生産
|
1949(昭和24)年 |
::: |
占頓軍が日本みやげとしてか、漆器を大量発注。 ・硯箱・タバコ箱・盆・菓子器 等
|
1958(昭和33)年 |
::: |
目中貿易の途絶。これにより輸入量の大半を頼っていた中国産漆がとだえ、漆の入手難、価格高騰を招き、漆業界は全国的に致命的打撃を受けた。 ・事業所数53軒
|
1964(昭和39)年 |
::: |
昭和恐慌には販売不振が続き、組合で生産調整も試みたが思わしくなく、値下げも行われた。 |
1981(昭和56)年 |
::: |
組合員32人 組合の努力により、漆工の若い芽を伸ばす努力を続けた・・・。
|
昭和後期〜平成期 |
::: |
生活様式の変化による漆器の需要減少、後継者不足など厳しい状況が続き、組合員の減少も続いた。 |
現在 |
::: |
組合員18人/17社 新潟漆器の新しい商品として、夕日塗を創作するなど伝統技術を継承しながら新しい試みにも意欲的に取り組んでいる。 平成15年3月に経済産業大臣から伝統的工芸品の指定を受けた。
|